自分史

誰にも自分の歴史があります。自由に書いて文章も上達、
楽しく人生を語り合います。

平成30年度授業予定 
講師 野口 和歌子 
会場 生涯学習センター
第五会議室
 
曜日 火曜日 
時間 午後 
〈2・4〉週 授業日 
H30/5月 8 22  
6月 12 26  
7月 10 24  
8月 28    
9月 11    
10月 2 9 16 
11月 20 27  
12月 11 25  
H31/1月 15 29  
2月 26    
3月 12    
 
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25年度 学園祭 自分史 出展作品      

※順不同

 ☆私がのぞむ死にかた(死生観)
 ☆輝いていたとき
 ☆忘れないこと

 三つの主題から一つをえらんで短冊にまとめました。一人ひとりの作品にしっかり向き合って読んでみてください。

 「ああ私も」と共感・共鳴するものがあるでしょう。生きるということは、自分の物語を創ること。人生の出口までの道のりは短くなったけれど、その道程に自分を褒めてやれる物語をたくさん植えていきましょう。                      

自分史 講師原田治子


  ☆私がのぞむ死にかた(死生観)

 先人の踏みしめて行った道を、私も一歩づつ歩いて行く。険しい道でも四季折りの美しい花も咲いているかもしれない。
                              雨宮マサ子

 後期高齢者という言葉ががある。65歳~10年、光輝高齢者という読み方もある。75~10年、高貴高齢者でおだやかに旅立ちたい。85歳~10年終わりよければすべてよし!
                              井上 雄視

 子や孫が願っていた以上の人になってくれて、私達夫婦は80歳過ぎ、いつ死んでも良い身になれた。もし出来るなら最後に誰かの役に立って死ねたら嬉しい。
            須田 静江

 頑張らない!いっぱい頑張ってきたから、辛い時は頑張れなかったもの。「頑張る」はニ○世紀に置いてきた。もう、頑張らずに、死ぬまで生きよう。
                              宮津 健一

 人生を満足して終えるかと問えば、社会に自分に役立つ過ごし方をしてきたか疑問だ。残り少ない時間をどう過ごせば良いか自問自答するが未だだ。
                              岩崎 芳民

 それほど変化のない毎日を過ごし、老いを楽しみながら、ある夜就寝。夢のない眠りにつき、そのままあの世へ旅だって行く。
                              高橋 建司

  「生きること」いろいろ有りました。何もかもすんだこと。私は笑顔で、悲しんでくれる人が少しいて「さようなら」 そんな別れがいいな。
                              井□ 和子

 余生の登り坂はとても厳しいと思う大怪我や大病をしている主人の背中を押しなながら頑張り、そして自分の旅立ちの時家族に“ありがとう”と言える余力を残しておきたい。
                              入山 勝子

 日本は長寿国、両親は平均寿命より長生きだった。その遺伝子のお陰か、私の老後も充実している。万一の時は生命維持装置は無用。ポックリいきたい。
                              篠沢 欣子

 一生懸命生きたので思い残すことはない。やりたいことも大方やり終えたので未練もない。これからは、日々の生活をエンジョイしお迎えを待つとしよう。
                              吉田百合子

 身辺整理をしておきたいと思いながら、なかなか手が付かない。まだまだと心の内であるためか? 自分でやらなければ誰がやる。後の手続き、その他全てお願いしなけれぱならないのだから死ぬまでやっておきたい。
                              中山 春枝

 あと、どれくらい生かしてくれるかわかりませんが、最後を迎える時には長い間苦しい思いをせず、家族が見守る中で静かに旅立ちができたら幸せです。
                             渡辺 ヨツ

 今を一生懸命に生き、身体より心の健康を大切に自分の世界を築き、安心と納得の出来るシンプルな毎日を送り、明るく楽しい気持ちで終わりたい。
                              山田 紀子

 夫婦になって50年。これまでいろいろあったけど、今が一番幸せと思える今日この頃だ。これからはお互い老体を大切に長持ちさせましょう。
                              高山 順子

 親がわりの姉を見送り、今の私は悲しむひまなく・主人の事・お店の事に追われる毎日・姉のように静かに穏やかに毎日に感謝をしながら一生を終わらせたい。
                              本木 史子

 私には二人の孫娘がいる。一人は犬に夢中、一人は友達と買い物に夢中、二人の花嫁姿を見たいけど、その日はいつになることやら、でもそれ迄頑張りたい。
                              鈴木 菊江

 健康長寿ピンピンコロリを願っている。母が私の年齢ごろポックリ寺詣でをしていた事を思い出し、今の私は当時の母の行動が納得出来る。
                              新留 弘子

 夢中で何かをしている時、人は輝いている。喜寿を迎えた私にもう「いつかー」はない。好きな楽しい事も今しかやれない。人生最後まで「光輝高齢者」でありたいと思う。
                              嶋戸 由美子

 若かりし頃の思い出を胸にだき、過去の辛い体験を水に流し、楽しい日々を思い浮かべ、私の人生幸せでしたと感謝し、苦痛もなく穏やかに黄泉の国へ旅立ちたい。
                              早間 節子

 手術前日悪性が8割と絶望が走る。ラッキーな事に1割の良性に助けられ生かされ感謝。10月17日で10年、後遺症はあるが後はぴんぴんころりと行きたい。よく動き生きる事を胸に秘めて
                              真峰きぬ子 

  ☆輝いていたとき

 昨日と違う今日も与えられた命に感謝し価値のない命はないのだと信じて生きた84年、だから今日も輝いて生きる。
                              佐藤 恒子

 平成19年、先天性心臓病の手術を勧められる「お願いします」と即答。反対する家族を説得。5時間の手術。今夫と二人旅を楽しんでいる。私の決断は大吉
                              石井 美晴

 十四年余、外国人の若い学生さんに日本語や文化を教えるボランティアを続けていること。この齢で人の役に立てる事は喜びです。
                  小磯 教子

 荒川シルバー大学に入学して自分史旅行に行ったり、いつも楽しく過ごしています。お教室の日が待ち達しいです。
                              畠山 英子

 私40歳札幌在住時、アパレルメーカーの和装部の仕立てを一手に引き受けていた。納期が短い時は入店証を付けて引き取り納入した。仕立て屋五人、気合が入り充実した日々。
                              佐野はるこ

 身長164センチ・体重55キロ、若い頃はモデルの夢も。このスタイルが一生のものと思っていた。75歳頃から、背中・腰も曲がり、今身長151センチ・ショック これが老いということか
                              岩間 則子

  ☆忘れないこと

 夫、只今入院中、うつらうつらしている表情が時々若き日の面影となって様々を語りかけてくる。二人で越してきた喜怒哀楽の日々が甦ってくる。
                              江川 芳江

 電話で三枝子「お母さん飛行機の手配しました。身体の調子整えて来て下さい。私の招待です」と嬉しい便り、カンカン照りでも汗をかかず暗くなるのが11時。甘えて過ごした2週間ベルリンの旅でした。
                              兼杉すぎ子

 富士登山をした。一生に一度は登っておく方が良いと言われている。懸命に登った。墜落した木星号の残骸を見た。頂上を極めて下山した。何だか晴れがましい気持ちになった。
                              藤原 晃

 主人が戦地へ出発の前日、将校だけは一夜帰宅を許されたのに、私は前日に実家帰っていて、貴重な一夜を過ごさせず、主人を戦地に赴かせた事は悔やんでも悔やみきれません。
                              落合 静子

 子、夫、両親、親しい人達を亡くしながら、それでも誰かに助けられて生かされている。69歳になってつくづく感じる。“蝉時雨落ちて真夏のアスファルト 影踏む人もなき身愛しく”
                              榎本 節子

 平成七年十一月二十七日朝か駐屯地のヘリポートに乗った。岩淵水門上空から雪が頂上に積り見事な富士山は今でも頭のの中に残っている。下には隅田川が白く光って流れてた。
                              佐藤 昭

 継母、危篤の報、入院中の「僕大丈夫、待ってるから」と夫、辛い思いを残し母ののもとに、遺骨を胸にした車中に夫が危篤の知らせ、病院に急ぐ一言も交わすことが出来なかった。深い悲しみ
                              塚野 明子

 昭和39年オリンピックの年。私は45畿、親戚20人と富士登山した。山路は辛く山頂の□が見えても近づく事が大変だったが、御来光の素晴らしさを見る事が出来た。
                              後藤八重子

 私は昭和20年3月10日と昭和20年4月13日の二回命の危険を感じながら東京大空襲を体験した。この上は政治色のない歴史の生き証人でありたいと思う。
                              鈴木 章夫

 勘三郎が大好きで、平成中村座四月公演法界を観劇、体中から放つユーモアとアドリブで屋の中は笑の渦、最高潮は舞台の後が開きスイツリーと桜吹雪ヨ! 中村屋 
                              谷川 精子

 雪深い福島の県道封鎖解除の日、紅白の幕を張り巡らした祝賀歓迎の一番バスは貸し切りの様な私達五人だけで猪菌代湖に向かった。昭和三十年四月二十九日の事
                              中野 儀子

 山形旅行に行った時、亡き主人は左馬が掘ってある将棋の駒に一目ぼれ、手ほどきを受けながら仕上げた左馬、今玄関で毎日そっと見守ってくれている。
                              石井みよ子

 あなたと登った茶臼岳、熊よけの鈴を鳴らしながら手をつないで那須高原、思い出の道なつかしい。ありがとう。あの風景が浮かんでくる。
                              石山つめよ

 戦時中学徒動員で軍事工場で働いて居た時、食糧も無くすべてが配給の時代に、母が寮まで手作りの品々を差し入れにきて下さり、学友と食べたこと深い親の愛を思う。
                   福井キミ子

《作成 高橋 建司》


 

24年度 学園祭 自分史 出展作品

※順不同

 今年は「年をとるということ」「荒川区に住んで」のニつの主題で六〇~七〇字の短文にまとめました。

 戦前から現在、戦中から現在、いまわしい戦争を知らない人。年齢差はありますが、人生の午後を迎え、

 今を大切に生きています。それぞれの目・耳・心は、どんなことを捉えているのでしょうか。

 ごゆっくりごらんください。ご自身の心に映しながら。

自分史 購師 原田治子


  [年をとるということ]

 五歳毎の人生の刻み
 六十歳の「信条」生きてきて良かった。六五歳の「心情」別社会との出会い、七十歳の「真情」壮年者としての意欲、七五畿の「実情」光輝高齢者、これからが楽しみ。
                              井上 雄視

 いつまでも元気、ふと足がうごかない。これが年を取るという事。あとは可愛いおばあちゃんピンシャンころりといきたい。
                              石山 つめよ

 「今まで出来たことが出来なくなること」<「NHK連ドラ「カーネーション」より>でも時間が出来ました。ゆっくり、じっくり楽しみながらやりましょう。転ばず怪我せぬように。 
                              井口 和子

 まだ自分で「年を取った」と自覚した事はない。あえて言えば、三人の子育ても終わり、親を見送り、今が一番自由に時間が使え、新しい事に挑戦、それには健康第一。
                              石井 美晴

 今は亡き父母、姑、舅、自分の年を重ねて想い出される。「あの時はごめんなさいね」とつぶやく、写真はだまって笑っている。
                              雨宮 マサ子

 生を受けた事に感謝し苦難の道を歩きつづけた。これからは、二人仲良く明るく穏やかに、与えられた命を大事にし、皆様のお役にたてる日々を生きたい。
                              江川 芳江

 体のパーツが傷み病魔が襲い介護するのかされるのか不安を抱えながらも一条の光りは師、友達、趣味に支えられ自分を嫌わず自分なりの歳を重ねること。
                              入山 勝子

 人生の後半期も認知症予防として食生活、運動、社交性など気軽に楽しく無理なく出来る事を続け健康的自立的に歩んでいきたい。
                              篠沢 欣子

 年齢も八十歳に達しいよいよ人生の終末期を迎えたこの上は他人に迷惑を掛けないように、自分のことは一人で出来る健康寿命を全うしたいと息う。
                              鈴木 章夫

 今後気持ち良く生きるためにはどうしたら良いかを考えた。元気なうちは人の助けを行い、助けを受ける立場になった時が来たら、胸を張って助けを求めが出来るような柔軟な生き方をして行こう。
                              高山 順子

 整理、掃除が億劫になり動作もスローモーに、探しものが多くなり、老いの忍びよるのは早く、新幹線のようと私。亡母は、私なんかジェット機さ、と笑った。
                              塚野 明子

 今年平均寿命に達し人生の延長戦に入った。一日を大切にしかし体内では、悪玉と善玉のパドルが始まっている。
                              石井 昭之

 年齢を重ねるに従い家庭や社会での役割、体の老化など不安もあり、過去を振り返り人間は悲しい宿命を持つもの。明日の事は難も知らない。今が幸せ。
                              石井 みよ子

 先が短いから毎日失われてゆく時を愛しく大切にしたい。人様の手を借りないで生活し、或日こつ然と 此の世から消えて逝きたいと思う。
                              落合 静子

 七十畿を超え体力急減退と人言うが、我実感なく人生未だと思いつつ、記憶忘れ如何せん、心身健やかに妻と共に残りの人生真面目に楽しく歩まん。
                              岩崎 芳民

 長野佐久から昭和十二年に中学三年仕切りに、生涯の勉学と諸行に関わる共通するものを求めるものを得た結果、幸運にも実務と勉学の共有化がよきものを得られたと自負出来ている。
                              小山 平八

 いい事、悪い事、幸せも、苦しみも後悔も自分の心で消化して、すべて受け入れられる光る器になる。
                              佐藤 恒子

 日暮里の地に五十年、念願の坪庭も、子供に母は元気とおだてられ、洗濯、食事の支度、ネコちゃん同居でお世話。日々老いを感じつつも守られている事に感謝しております。
                              大貫 育子

 忘力がつく葬儀関連の出費と出掛けが増える体力がなくなる。昨年迄出来た事が出来なくなる。若い時の作品にみとれ、其の頃の思い出に浸る。
                              佐野 はるこ

 神武・岩戸・五輪・いざなぎ・万博・ジュリアナバブル。景気が付いて良、なべ底・オイルショック円高・パブル崩壊・リーマンショック。不況が付いて負、色々あった。若者よ! 何から語ろうか?
                              富澤 健一

 年をとると言うことは体力が落ち、若さが無くなる。しかし、敬虔な心と寛大で人生経験豊かな老人と成り得る私には、遥か違い道、息切れしつつ追いかける。
                              中野 倶子

 老いて先々悩むより、老いて先々楽しもう。やり残した事に気付いたら、なんでも良いからやってみよう。何時か終わりがあるけれど、きっと楽しい未来待っている。
                              藤原 晃

 行動半便や人間関係が狭くなり孤独を感じる。徒然草の一節に「まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ」とあるが笑顔を忘れずに「孤独」を生涯の一部として日々を送る。
                              山田 紀子

 病や親しい人の別離が突然おそうが自然の営みに感動し、友達に癒され、すっ九割れ、一筋の光がさす老いてなお青春。
                              真峰 きぬ子

 年をとることは楽しいね。みんな忘れて楽しいね。一日一日を感謝の心。前を向いてゆっくり歩こう。
                              菅原 房子

 頭は禿げたが、中味は現状維持に努め、永久歯は全て健在。毎日酒を飲み、食欲も旺盛。毎年新しい事とに挑戦し、年を取ることを忘れて元気な毎日を過ごしている。
                              高橋 健司

  [荒川区に住んで]

 荒川区制になったのは昭和七年十月一日、私は小学生。都心より少々奥だが、現在は交通の便よく、物便は安く、人情細やかで福祉がよい。年配者には嬉しい限り。
                              後藤 八重子

 荒川区に嫁ぎ五九年、南千住周辺すっかりお酒落になる。その変わり様に大変驚いている。人情にも厚く住み良い所だ。
                              小磯 教子

 生まれ育った荒川の町は住み良く交通の便も良い。店も多く便利、買い物が多いと家まで運んでくれる。友人が病気と聞けば、手作りの差し入れしたり、されたりの温かい町。
                              兼杉 つぎ子

 荒川区に住んで三十五年、茨城の農村でに生まれて十五年、就職して川崎市で二十年、荒川が一番田舎だと思った。選挙カーが軽四輪だった。現在も変わらない。
                              岡田 正視

 産土の町屋稲荷前、昭和七年四月東京府北豊島郡高畑村第四高等尋常小学校一年生、八十年荒川区に住む、老いてなほたのしい毎日。
                              上石 信子

 荒川で生まれ、荒川で育ち八十歳になる。物価は安く人情に厚く、シルバー大学もある。そんな荒川が私は大好きです。
                              新留 弘子

 港区から移り住んで二十年近く、勤めの関係で暮らし出して七~八年、感じることは物価が安い生鮮食料品が良い。私の知り合った人々、近所の方など心から話し合える住みやすい街ですね。
                              中山 春枝

 荒川区大好き、いつもほほえみの絶えない町です。
                              飯島 好子

 荒川区に住んで五十年、安心して住める大好きな町高齢者にもやさしい町、人と手をつないで、よい年を重ねたい。シルバー大学に通え、今がしあわせ。
                              熊川 京子

 この区に住んで六十三年、来た時は宮地にロータリーがあった。開発が進み、交通の便、住民の人の良さ物価が安くとても住みよい町だ。
                              須田 静江

 荒川区に住んで五十余年、交通の便よく、買い物にも便利、区制の充実に感謝。近隣の方達とのお付き合いも和やかで安心な日々、シルバー大学で楽しく学べる幸せを実感。
                              鈴木 菊枝

 荒川区に住んで六十年、二九年ぶりに訪ねて来た方が「オトギ」の国の様だと言われた。近隣が変わり、高層マンションばかりになり、昔の風情が無く、淋しく思う。
                              福井 キヨ子

 パソコン初心者の私は区報で購座の募集を知り、す ぐに申し込みました。受購料も安く区に感謝しながら、今も習得に励んでいます。
                              田崎 武夫

 結婚して五十年荒川区に住み、前に自分が暮らしていた所より物価が安く、とても住みよい。ありがとう。
                              畠山 英子

 荒川区に住み六十年以上、二人の子供は地元の小中学に通い、私もPTAを通し大勢の友人が出来ました。静かで住みやすい所なので、マイホームも建てました「違い親戚より近くの他人」
                              渡辺 ヨツ

 荒川区に住んで八十数年、大変に明るい町になりました。これからも、なお一層努力して、荒川のため皆様明るい、楽しい町にしませう。
                              山崎 勝義

   たった60~70字の短文なのに、残りの片道切符をいかに大切にして生きているか、生きていこうとしているのか、ひしひしと伝わってきます。また、来し方を顧みて、今の自分をみつめている心も、これからの生き方につながるのだと感じました。そしてまた、荒川区に住んでいる高齢者は恵まれているな、とうらやましく思いました。いくつものハードルを乗り越えて来た「今」、思慮深く、人生を大切に生きる人達と出会ったしあわせを互いに噛みしめたいものです。          

原田 治子


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 人は誰しも自分だけの歴史を刻み続けています。これが自分史です。

 六十代から九十代の学生がこの歴史を、わが人生の軌跡を、熱く熱く語ったり、真摯に書き上げてきた作品を合評し合うとき、この教室は感嘆、共感、共鳴、感動、そして人間愛に満ちあふれます。自分だけの人生の殻から抜け出して、これまでに体験したことのない、仲間の人生に逢えた時の教室光景です。生きてきた年代の差異が大きい故に、人生の間接体験を広げ、豊かな心情を互いに育み合っているのかもしれません。

 自分史は過去を振り返って綴るだけではないと私は考えます。“今を生きている”“今を一生懸命に暮らしている”こんな自分にスポットをあてて描いたものは、より確かな自分史です。過去や未来は不確かなもの、確かなものは「今」なのですから。

 年をとるほどに「できること」は少なくなり、行動の選択肢も狭くなりました。でも年輪を重ねたからこその深層な体験はたくさんできます。散策、読書、旅、闘病、交友・・・。「今」を懸命にさわやかに、しかもしたたかに生きる自分を、心おきなく語り、思いのまま綴りあげていく。こんな自分史教室の存在に私は意義を感じています。

     2010年8月

講師 原田 治子


 今、私は人生の午後ではなく、人生の夕暮れです。その夕暮れは茜色に輝く明日に夢をつなぐ人生でありたい。

   人生の 夕暮れ明るくと 願いつつ
        シルバー大学に 学ぶ われは

佐藤 ひで   

平成24年2月

23年度自分史教室の文集が出来上がりました。
作品のいくつかをお読みください。

下のボタンをクリックすると、文集ファイルが開きます。

平成24年2月


失敗

須田 静江  

 今年の春の、ある一日のことでした。日付は忘れました。

 日暮里駅バス停の錦糸町行きの前でした。 長椅子に座りバスを待っていました。

 何気なく隣を見たら座席の上にある変なものが眼に入り、何だろうとよく見たら、水のような? ベトベトしたような? よく見ていたらいきなり六十歳代位の男性がその場所に腰を掛けようとしました。
 私は思わず、「ダメー」と大声を上げてお尻を押し上げてしまいました。 男性はびっくりして、「俺、何もしてないぞ」と、これも大声で叫んだので私も驚いてしまい、「そこを見て、汚れている」と。
 「あっ悪かったな、気を遣ってくれたんだ」そこで二人して大笑い。
廻りの人達も一緒に笑ってくれました。 それでも私は恥ずかしくなり、いろいろ考えてしまいました。
 「何という年甲斐のない、外にいくらでも言い方があったのでは~~」と・・・
 「もしも私が、反対の立場だったら、あの方のように笑えたか?」バスに乗ってからもずーと考えてしまった。

 浅草で、その方が下りる時、わざわざ私の所に来て「どうも有難うよ、じやあーな」
と、手を振ってくれた時、ほっとしました。 悪くは思わなかったのだと。

 それにしても、私はいくつになっても、このような失敗ばかりする人間なのだ。
もう少し何とか優しく、女らしく柔らかな言葉が使えないのか?。

 反省した一日でした。

 子供や孫達へ。「もし、あなた達も同じような事があったら、もう少しましな、柔ら かな言葉を考えて下さい」。

 それには本を沢山読んでね。

平成23年12月


老い支度

新留 弘子  

 先日友人が亡くなってしまった。
体が自慢でお産以外は病院に行ったことが無かったのに、くも膜下出血だそうです。
にわかには信じがたく、なかなか受け容れられませんでした。 良くケンカもしたし、血縁の薄い自分はショックで体の内に風が吹くように感じました。 毎口逢っているわけでもありませんでしたが、何か訴えて相談する様な時には頼りになりました。

 私の周囲には老人が多く、いつ別れても不思議ではない人が多いのですが、此の人だけは「絶対に死なない」と思っておりましたから、ショックでした。
 明日はわが身に起らないとは言い切れませんので、いつ起きても対処できるようにと普段から身の周りの整理・整頓を始めました。
 ところが、いざ部屋に入り整理し始めると頭痛になり、休み休みやることになりました。
 まず三年間使わなかったものから処分しよう、と決意したものの三十分もすると膝が痛んできました。
とにかく座ろうと思って、ふと足元を見るとアルバムがあり、手に取って見ると懐かしく。全然作業が進みません。
 三輪車に乗っている自分、七五三の時の自分、集合写真等の白黒写真は愛おしくなります。
 青春時代、登山にスキーに楽しく過ごし、その一枚の集合写真は、会社のOB会。

 毎年9月第2土曜目、当初50人集まっていたが、50年近く経ちますと人数も減り、杖をついたり昔の面影は消えてしまいました。
思い出話になると話がやっと盛り上がり、時の経つのを忘れて帰るのも借しくなるくらいの心境になります。
遠くの新潟や葉山から来てくれました。 でも、何時まで続くか楽しみです。

 思い出に浸っていると、突然玄関のベルが鳴り、お茶飲み友達がやってきました。
 話し込んで日が暮れてしまいました。部屋に戻り整理を再開、足の踏み場も無く、今日も作業が終わりません。  亡き母の遺品も整理できずに居ます。

平成23年9月記


心に残る想い出のホーム


後藤八重子 


 戦争、戦争だった私の若い頃、いろいろあったが、特に昭和15年の1月、其の頃は日支事変も段々と激しさをまして、若い人がどんどん出征する。

 私が行っていた珠算学校の人達も次々と入営することになり、駅まで見送りに行くことも度々だった。

 上野駅に行った時のこと、まだ宵のロだったと思うが、今と違って薄暗いホームを覚えている。 汽車も昔は小さめの窓で、入隊する人が家族や見送りの人達に手を振っていた。 やがて発車時間となり、無情な発車のベルが嗚りひぴいた。

 その時だった。 誰が流してくれたのか、駅の偉い人だろうか? 当時は歌と言えば軍歌だったのに、なんと田端義夫の「別れ船」の曲がホームに流れてきたのだ。

  「名残りつきない はてしない、別れ出船の鐘がなる~~」軍歌は聞き飽きていた。まわりの人達は顔を見合わせた。  オヤッと思って私も思わず友達と顔を見合わせてしまった。  静かになったホームで歌は続いた。 その場にいた人、それぞれの心に沁み入るメロディだった。 送られた人はどんな気持ちで聴いていただろう?

 今でも田端義夫の歌を聞くと、72年前、あの上野駅の切ないホームを想い出す。

平成23年12月


一人暮しも楽し

          ―最期は微笑んで―

塚野明子  

 「この子は育たないよ」、と医者から言われたそうだ。それがなんとこの年まで生きた。母の寿命を分けてもらったのかもしれない。最近まったく上手に片付けごとができなくなった。老後に一歩も2歩も踏み込んで居るのに、老支度はまったく無し。それでも4年前に、遺言信託はすませてある。私の一人暮しも夫の死後16年になる。二人共一人っ子同士、子供もなし、実に身軽なもの。一人で時間を過ごすのも、あまり苦にはならない。でも最近気が付くと、群れをなして行動することが多くなって来た。遊び、サークル活動の合間に、病院通いをするので、スケジュールの調整が一寸困難な時もあり、7月は天手古舞。フラダンスの発表会のための練習も数回あり、7月3日サンパールの大ホールで午前と、午後は生バンドで発表。

 無事終了し、やれやれと胸をなで下ろした、その直後、冷蔵庫で製氷が出来なくなり、その日の中に、ケーズ電気へ。店員の巧みな言葉に乗せられ、今までより6㎝も巾のある大型を買うことになり、2階のダイニングキッチンまで、大男が二人で、階段を担ぎ上げてくれた。踊り場の壁面に飾ってある120号の油絵とか、色々な飾り物を片付け、通路の確保。冷蔵庫の中身の総入れかえ、旅行の前なのになぜ、とベソをかきながら仕方なく、クリア。息付く暇もなく、数日後出発する8日間の海外旅行の仕度にとりかかる。

 「シルバー大学の英語のクラスは海外旅行が、年一回、国内旅行一回と食事会あり。」と誘われ、不純な動機でクラスに参加。仲間の方々と、とても楽しく、マレーシア、ウィーンと今回のイギリスで3回目になった。帰国後、荷物の整理も付かぬまま、熱海の花火見物の1泊旅行、何時も一緒の仲間でも、さすがにお疲れさまー。後遺症はいまだに残り中々片付かない。気になりながらも毎日の様に、いそいそと出掛ける。誰一人文句を言う人もない気楽なこともあるが、こんな事で良いのかと反省もしきり。最近厚生労働省から、発表になった、女性の平均寿命は前年を下廻る、86.39歳、0.5歳短くなったが、連続世界1位。男性は79.64歳で、前年の5位が4位になった。平均だとあと残すところ数年。アー今朝も気持ちよく目覚め‼生きていてよかった!

 もしその時が来たら、人様のお世話にならずに、「アリガトウ、こんなに長生きできました。」とにっこり微笑んで、懐かしい人達の待って居る所に、旅立ちたい。

平成23年11月

平成11年 自分史教室

自分史其の三

落合 静子

 昭和20年3月、主人の戦死の報に悲嘆に暮れていた頃、敵の空襲は日増しに激しくなり、私の一家は母の叔父の家が鏡島村で空き家になっていたので、そこに疎開していた。夜寝る時も着のみ着のまま、防空頭巾を枕元において寝ていた。父は軍人としてビルマに居り、兄は何処の基地にいるかは分からないが、特攻隊の予備軍として待機中だった。

 岐阜市に近い鏡島村は、絹織物の機屋さんが多くあったが、戦争が長引いてそれも出来なくなり、殆どの家が軍需工場の下請けをしていた。こんな小さな村だから空襲は無いだろうと安心していたが、アメリカは既に軍の下請け工場のあるのを承知していたとみえ、終戦も間近い六月頃の夜空襲警報が鳴り響き、すぐに飛び起き枕元の防空頭巾を被り、何も持ち出せず身一つで外に飛び出し畑のある方へ逃げて行った。

 母は、実家の方に行っていて留守だったので、祖母と弟、妹二人と逃げたのだが、岐阜の方から飛んできた飛行機は低空飛行で機銃掃射を浴びせるので、生きた心地がしなかった。又、家々にも焼夷弾を落とし、あちこちから火の手があがっていた。敵が飛び去り、火の手も収まった頃家のあったところに戻ってみると、なんと家は跡形もなく無くなっていた。しかも、皮肉にもうちの隣からは残っているのだ。でも命だけは助かってよかったとほっとしたのだが、気がついてみると一緒に居た筈の妹二人の姿が見えないのだ。祖母と弟は一緒だった。死んでしまったのかと畑の方へ探しにいったが見当たらなかった。

 幸い母の実家は空襲を免れたので、とりあえず三人でそちらへ行った。母に妹達の事を話したら、母は死んだと思い悲嘆に暮れていたが、暫くして叔母の家に非難していた事が解りほっとした。叔母の家はやはり鏡島村だったが、工場街とはずっと離れていたので難を免れたのです。

 私達が借りていた母の叔父の家も昔は絹織物の機屋だったが、京都に絹物のお店を持ったので、空き家になっていたので工場街の一角にあったので焼かれてしまったのです。焼けた家には全財産が置いてあったので、母は三ケ月程腑抜けの様に呆然としていました。

 八月十五日終戦となりほっとしたのも束の間、今度は父の戦死の知らせに皆呆然となりました。私は十六歳、下の妹は十歳の時、父と別れたきりです。兄の方は、終戦が一週間遅かったら特攻隊員として出撃していたそうです。兄が復員してきた時は、母はとても喜びました。

 母と私は同じ年に未亡人になったのです。どちらも遺骨も遺品も無い葬儀をこの年に二度も行うことになりました。

をわり

平成23年6月


自分史 楽あり苦あり私の細道

中野 ?子

(長文です。別ウィンドウで開きます。
     こちらをリックしてください。)→

 今、私は人生の午後ではなく、人生の夕暮です。その夕暮は茜色に輝く明日に夢をつなぐ人生でありたい。

人生の夕暮明るくと願いつつ
シルバー大学に学ぶ われは

佐藤 ひで


私の宝物

これまで生きてきて誰にでも大切にしているものがあります。
目にみえるもの、心の中にあたためてきたものその中の「ひとつ」を表現しました。             

自分史担任 はらだ


学園祭 自分史コーナー

オルゴール

雨宮マサ子

私の結婚式の前日に母がそっとくれた荒城の月のオルゴール今、私にも大切な物があった事に気がつき、のどの奥がつまる。

母のおくりもの

飯嶋好子

結婚する時に母がサンゴの帯留めをつけてくれました。私はうれしくて優しさといつも母のほほえみを心にきざみ、頑張ってきました。

「想い出に残る一枚の着物』

石井みよ子

亡き母がまゆ玉を煮たてて糸をつむぎ染めはた織機で一反を織り上げて着物を仕立ててくれた母の心がこもる着物

「母が旅先で買った人形」

石井美晴

女手ひとつでハ人の子供を育ててくれた母が私の初めての出産の時にくれた「這えば立て立てば歩めの親心」と書かれた土産物

私の宝物 ポウリングの盾

石井昭之

NBC協会の大会で、300点を達成。東京都一〇一番目のパーフェクトポーラーになり、記念品として盾をいただきました。

歴史が詰まったアルバム

井口和子

事ある毎に、写して 何時しか五十数冊時々開いては、その当時を思い出し懐かしんでいる。

手巻時計

井上雄視

いま手元において三十五年が経過した手巻鉄道時計私の人生の友達である。これからも一緒に!

亡き父の釣竿

入山勝子

無口の父が、浮き、練り餌、びく、まで作り毎日竿の感触を楽しみ、人生の哀歓を込めた、釣竿です。

家族

江川芳江

苦しい時、悲しい時、楽しい時、愛とはげまし、癒しをくれる家族です。いつまでも、明かるく、健康でありますように。 

母からの贈りもの

落合静子

母が年をとってから覚えたミシンで実に丁寧に縫ってくれた袋物です。
いつもパックに入れて持ち歩いています。 

ビーズの財布

川口典子

中気で、ふるえる手でビーズを一つずつ入れて編んで居る母の姿が、目に浮かんできました。

『ルビーの指輪」

上石信子

母の形見のルピーの指輪です。母は、私の小学校入学を楽しみに三月二〇日亡くなりました。

「母の涙」

小林潤也

炎をくぐりて残せし着物売りて命つなぐ涙が米に。そして自分がいる。

「私の若い頃の写真』 

後藤八重子

戦時中空襲で焼かれてはと、夫の実家の沼津へ疎開させた、若い頃の写真

「老病」

小山平八

病に悩まず病と手をとりて向き合い持病と楽しく語り合う。

天国へ旅立った孫

兼杉つぎ子

平成十五年九月二十二日誕生日目前に二十四歳で逝ってしまった孫。年より三文安い我が家三人九文安いが優しい子だった

日本画の巨匠平山郁夫

佐藤ひで

これを戴いたのは、今から二十年前の事です。その頃は一生懸命絵の勉強をしていた懐かしい思い出のハガ牛です。

母の言葉

佐藤恒子

人は病気では死なない生まれてくる時もらった寿命だけ生きられる。 

「親友」

佐野春子

自分の一大事を一番先に相談してくれた友心のうちを何でも話せる友、合鍵まで預けられる友です。

「故郷の山」

菅原房子

赤城、榛名、妙義の山々を背に語り明かし日、若きころの日々が故郷の山に重なってくる。

「妹からの万年筆」

熊川京子

古希の祝いに、妹からもらった万年筆、自分史教室に入って、自分史を大いに書いてねと妹のやさしさ。

戦前六十五年間の大相撲の星取表

鈴木章夫

私は小学校の頃よりの大相撲ファンで昭和二十二年秋場所星取表から現在までの星取表を保管している。 

マラソン大会のTシャツ

篠沢欣子

 45歳から現在までに参加したマラソン大会で、記念Tシャツー00枚以上が、私 健康の証しです。

亡き母の言葉と手のぬくもり

鳴戸由美子

「あなたなら大丈夫、きっと乗り越えられる。私は信じているよ」―母子家庭どん底の私に―

「日記帳」

高橋建司

中学生の時、担任の先生から交換日記の提案。
それが私の日記を書く原点となった。

夫の遺骨

塚野明子

私達お互いにI人っ子同士、子供に恵まれず、結婚四〇年目の別れでした。分骨してビーズのルージュケースの中に入れて、いつも一緒です。

「木彫(白壇)の小さな象』

真峰きぬ子

私に生きる勇気を与えてくれた今は亡き厚美さんからの贈り物。共に過ごした喜び木彫に思い出が甦る。

姑の言葉

鈴木菊江

夫が亡くなった時、我が息子は四歳『息子の為には母親が残った方がいいのだから」と言った姑の尊い言葉。

筆箱(想い出箱)

須田静江

七十四年前いつも番台 番台の母と初めて二人で学用品を買って貰った時の筆箱

「子供」

比留間繁子

親と子はオーイと呼ぶと風のようにとんでくる。心と心の深い深い絆です。

「鼻緒の無い下駄』

鍋村有妥子

昭和二十年の大晦日、母代わりの父が焼け野原の中、鼻緒の無い下駄を買ってくれました。鼻緒が買えなかったからです。

白絹布への想い

中野倶子

女学生の私が入手困難な材料寿白絹布に「カマ糸」を手でよって流水に桜の花びらを散らした絵柄の日本刺繍の半襟、戦災時の一品。

「健康」

新留弘子

めまい、血圧230/120これでお仕舞いか、体が不自由にと不安が駆け巡る、その時一番の宝は健康!

写真

中山春枝

小学校卒業時の写真、六十年前当時の楽しかった自分を思い出した夏。

亡母の本(森鴎外全集)

宮澤健一

貴女が嫁に来た時に持って来て、空襲にも焼け残った。あの森鴎外全集貴女の曽孫の希代に渡したよ。

妻との遠い昔の旅の想い出

深田幸一

歴史をきざんだよれよれの古いアルバム八十路を共に過ごしたつれあいに感謝

一枚の着物

山崎勝義

妻を亡くして早や二十二年がすぎました。今も一枚の着物を大切に箪笥の中に。もう一度、この着物を着た姿を見たい。

「一枚の写真」

山田紀子

九人で写っている写真。今はたった二人だけ。人生を想う愛しい写真。大切な想い出がいっぱい。

初めてのプレゼント

渡辺ヨツ

主人が胃ガンの手術をして、長い間苦労をかけたと「プラチナのネックレス」贈ってくれた。

私の夫

畠山英子

元気な時は気づかなかったが入院手術で体力が弱っていく夫。心の支えだった。

拝啓お月様

佐藤 恒子   

 
私は山形県の庄内平野に生まれました。この作品はふるさとのお月さまに語りかけているのです。

 拝啓お月様、私は東京に暮して53年の歳月が過ぎました。その頃実家の屋敷と道路の間を流れる堰の上にかかった箸の上で見た、あなたに会いたいと思うようになりました。雪野原の上に出たあなたも美しいけれど、私は秋のお月様が一番好きでした。

 秋と云っても稲の穂が実り、昼間吹いていた風も止み、夜霧で重たそうに頭を下げた上に注ぐ月明り、時折稲の体がぶるっと震えると、サラサラッと小さな音が聞こえる静かな夜は、本当にあなたは美しかった。

 月山(がっさん)の稜線から出るときは赤い明りなのに、上に登ると白い明りになって田園一面靄ったように明るかった。

 あの中にもう一度立って自分の人生に句読点をつけて、ふり返ってみたいのです。

 私の実家は鉤の手に並んでいる村の南の外れにあったでしょう。あなたのきれいな夏の夜は村の人たちが団扇をぱたぱたさせながら一人二人と涼をもとめて集まってきましたね。すると父は縁台を橋の上に運んできて
「母さん西瓜持ってきて」

 母は井戸から取り出した両手に余る程の西瓜を、しずくと一緒に父の手に。サァ皆で食べましょう と包丁を握る父の姿が思い出されます。西瓜を食べながら
「このままだと今年は上作だとか、二百十日は静かであればいい」
なんて話していました。お月様も見ていたでしょう。

 此頃はどこの家でも冷暖房の設備が整っているし快適な暮らしの中では、涼を求めてなんて事もいらないわけだから見失ってしまうものもありますね。

 お月様、私はどうしてあなたが好きなのかと云うと、病気でねていた部屋の窓からも見ていたからだと思います。

 病気をして寝ていたのは十五歳から。みずおちの凹みにたまった寝汗がすーと流れおちてきて気持ちが悪くて目を覚まし、母の用意してくれた着替えに手を伸ばすころは、あなたは空の真中あたりに来ていて、秋頃になると梨の木の間から光るあなたをじっと見ていました。小さなガラス窓から見ていたお月様。明日の晩も見られるといいなー。辛い病気の続く中でそんな事に望みをかけて見ていました。

 元気になれたのは十七歳。出席日数の足りない分又学校に通いはじめました。卒業できたのは夏も終りに近い頃でした。

 母の仕事も手伝えるようになりました。一日の仕事が終わるとお月様の出てる夜は必ずと云っていいほど橋の上にたって、あなたを見ていました。あなたを見ながらどんなことを考えていたのでしょう。当時の心は思い出せません。実家の庭は小屋も蔵も其のままですが梨の木はなくなりました。でも橋は其のままです。その上に立ってあなたに会いたいのです。話したいのです。

 お月様、今私は幸せです。でも夫と暮らした歳月の事、両親に対しての想い、今まで誰にも話したことのない心の奥に座ったままの事等、胸を大きく開いて取り出して話してみたいのです。あなたのあの美しい明かりの中で。

   平成22年10月


「ロビンソン・クルーソー漂流記(ひょうりゅうき)」の思い出

宮澤 健一   



 2010年2月27日、南アメリカ東岸のチリでマグニチュウド8.8の大地震が発生し、多くの犠牲者がでたとのニュースが伝えられました。 そしてそのチリの沖合い600キロ・メートル、にあるロビンソン・クルーソー島が大津波にのまれ、人口600人の島の20%~30%が消えて5人の死者と11人の行方不明者が出ているとの記事を目にしました。 

 人の力の及ばない天災の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたと思いました。
 
 また日本にも津波と云う災難をもたらし、多大な経済的損失を被ったとのことです。

 このような大災害が起っている時に、大変不謹慎な話ですが、この島の名前を目にして、自分の小さな頃のことを思い出してしまいました。


 それは昭和23年、私が小学校5年生のお正月です、お年玉と父が買ってきてくれた本を一緒に貰いました。 その本は、去年の暮れから父にねだっていたもので、その名は「ロビンソン・クルーソー漂流記」(ダニエル・デュフォー)です。 当時近所の本屋さんには、この様な新刊本は置いてなくて、父は日本橋の方の本屋さんで求めて来てくれたようです。

 早速手に取り、ピカピカに光っている表紙をなでて、それを捲(めく)って見ました。 一枚目には大きな髭の西洋人が、自分が作ったのか、毛皮の帽子と衣服をまとい、本人が作った、筏の上に立っています。 その隣には、水か酒かが入っていたであろう大きな西洋樽が乗っています、樽の上にはオオムが止まっており、大男の右隣には山羊も乗っている、そんな挿絵が書かれていました。  勿論当時のことですカラーではありません白黒のものですが、凄い迫力を感じたものでした。 

 ドキドキしながらページを捲るとそこに目次があり、その裏にはこの小説に出てくる主な登場人物が書かれ、その下にその人物像が紹介されて載っています。  



 次のページがいよいよ本文です。
 
 親の反対を押し切って航海士になったロビンソンは、或る日多くの乗組員と共に航海に出ますが、大きな嵐に巻き込まれ船は難破し、彼はたったひとり無人島に漂着します。 気を失っていた彼が目をさますと、海の彼方に彼の船が座礁しています、なんとか苦労しながらそこにたどり着いて、中を見回しても彼を除いて誰一人いませんでした。

 そこで船の残骸に残ったわずかな積荷を工夫しながら島に運び、孤独な無人島生活をはじめるのです。

 この島は、無人で時々近隣の島の住民(蛮人)が、捕虜を連れてきて処刑をしたり、食人が行われている所でした。 或る日処刑されるべく連れてこられた捕虜のひとりを助け出し「フレディー」と名付けて従僕にし、二人で長い生活を始めるのです。 

 そして或る日、近くを通りかかった船に、ありとあらゆる知恵と工夫をめぐらせて合図を送り、助けだされて帰国することができるのです。

 その冒険は、さまざまな困難に苦しみながらの27年間にも及んだ物語です。


 ハラハラ・ドキドキしながら読んだ記憶が、この「ロビンソン・クルー島」と云う名前で思いおこされました。
   
 今から3年ほど前(平成19年)でしたか? 神田の古本市でこの本を見付けました、でもあの頃、あんなにピカピカに光っていた本が、この程度の物だったことを思い知らされ、なんだか寂しい気持ちが込み上げてきて神田の街をあとにしました。

     平成22年5月

自分史

O・S   

 私の通っていた女学校は毎年組替えがあり、最後の学年で五人の仲良しグループが出来ました。其の中にN・T子とゆう綺麗な人がいました。其の人を「Nちゃん」と呼んでいました。そのうち一人去り二人去りしてゆくので「どうして」と聞くと「Nちゃんは不良だから一緒にいると私達まで不良に見られるから」と言うのです。でも私はその言葉を信じませんでした。Nさんの家はとても昔気質の家で特にお母さんが厳格できぴしい人だったので、いつも真直ぐに家に帰る人なのです。むしろ私達の方が下校の途中で、あんみつやアイスクリームを食べたりして校則に反していたのです。ただNさんは綺麗なので男子学生が下校の途中で声を掛けたりしていたので、そんな噂が広がったのだと思います。Nさんはわたしに「貴女だけは私から離れないでね」と言いますので私も「いつまでも離れないわ」と答えたのです。

 卒業してからも二人一緒に洋裁や和裁、茶道など習いに通っておりました。一年位たった頃、Nさんが私に「結婚する気ある」と聞きますので「女ですものいずれ結婚するわ」と答えると「少し年齢が離れていてもいい」と言うので「その人によりけりよ」と言うと「実は私の兄が戦地から六年振りに戻ってくるので、もう三十才になっているの。とても大好きな兄だから兄妹でなかったら私が結婚したい位なの、だから貴女以外の人には渡したくないの」といわれました。まだ一度も会ったことの無い人なので戸惑いましたが、そこまで言われては私も考えざるを得ないわけで、母に話しましたら「一度会ってみたら」と申しますので、仲人など立てずに堅苦しい事は抜きにしてNさんと兄さんと私と三人で映画を見ることにしました。

 その人の名はN・Mと言います。旧の一月一日に生まれたからだそうです。大学時代に学徒動員で中支に連れて行かれ、幹部候補生の試験を受けて中尉になって帰ってきたのです。始めて会ったとき、ジャケットにノーネクタイ、下駄ばきで来たのでぴっくりしました。私の方は母が正装用の着物を着せてくれたのにこの人は一体なんと思っているのかしらと首を傾げました。二度目に私の家を訪問したときは着物に角帯で呉服屋の番頭さんみたいで二度驚き、三度目の訪問の時は将校の服装で長いサーベルに長靴のいでたち、この時に一目でポーとなってしまいました。

 六年も中支にいたので二年間は戦地に行く事は無いという事だったので結婚を承諾しました。私は女学校を卒業すると同時に徴用逃れに岐阜県庁に勤めておりましたが結婚が決まったと同時に寿退職しました。しかし、もうこの頃には少し日本軍の敗色が濃くなってきていたのでしょうか、国民には何も知らされていませんでしたが、二年は召集は無いという事だったのに又召集が来たのです。母や親戚は結婚を取り止めるようにと言いましたが、Nちゃんに「兄に家庭の味を知らないまま戦地に行かせるのは忍ぴないので、お願い結婚してやって」と頼まれると、’私も軍国の乙女、たとえ一夜妻でもいいと母達を説き伏せて結婚しました。

 Nの本籍は愛知県だったので名古屋城に部隊がありそこへ入る事になりました。将校は家から部隊へ通えるので、主人の叔母が名古屋に居たのでそこの二階を借りて新生活を始めました。何しろ私は十九才それまでご飯を炊いた事も無く、結婚が決まってから特訓で習いましたので全くまま事のような生活でしたが、主人とは十一才も年が離れていたのですべて許容してくれました。

 新婚生活四ケ月経った頃いよいよ戦地へ行く事になり主人が明日部隊に入るという前夜は一晩中泣き明かしました。それが今生の別れになるとは思いもしませんでした。

 Nの両親は、私がまだ若いしそれに主人は三男だったので主人が戦地に行っている間は実家に帰っていても良いと言って下さったので実家に戻っていました。この頃はだんだんと空襲もひどくなってきたので、母の叔父の家が鏡島村に空家になっていたのでそこヘ一家で疎開していました。主人から台湾の高雄に居ると手紙が来ましたので台湾なら戦死するような事は無いだろうと安心しておりました。主人は良く手紙をくれていました。其の日の朝にも手紙が来て喜んでいましたら、Nの家からすぐ来るようにと電話があったので何か叱られるような事をしたのかと恐る恐る訪れましたら両親が出迎えてくれて私に一通の手紙を手渡して読むようにとの事、巻紙に毛筆で書かれた手紙を読むうちに私は終わりまで読まないうちにそこに泣き崩れてしまいました。主人の戦死の様子を部隊長が直筆で知らせてくださったのです。高雄の部隊に空襲警報が鳴ったので部下を全員防空壕に入れ、自分は責任者として一人で部署を見回って入る所を機銃掃射で一斉攻撃され部隊でただ一人だけ戦死したとの事、それは昭和二十年三月の事でした。家に帰る途中も涙が込み上げてきて人を避けるようにして帰り家の玄関に倒れこむようにして泣き伏しました。

 これが不幸の始まりでした。この文を書いていても其の当時の事が思い出されて涙がにじんできます。

   (平成22年8月掲載)

自己流 海外旅行

嶋戸由美子   

 旅行が大好きだ。
 でも、「あそこ行った、ここも見た」の、パンフレット確認みたいな、ただの観光旅行じゃつまらない。 自分なりのテーマだとか目的を持っての旅にすると、より楽しい思い出が残るに違いない。これが私の旅に対する思いと希望。

 行き先や日程が決まると、普通は持参する物の準備にかかるのではないかと思うが、横着にも、私はトランクの準備はいつも前日。 たまには出発の朝という時もあるが心配無用、今の世の中もし、忘れ物があったとしても何とかなる。 

 ただ、絶対忘れてはならない物はメモにしてあるので順番にチェックしながら用意する。 

 パスポート、ビザ、保険証のコピー、写真二枚、カメラビデオとバッテリー、充電器、仕上げた旅程表、常備薬、消毒綿、疲れた肩足用のスプレー、筆記用具、又、現地でもし買うのが不便だと思う場合の必要な物、衣類は最低限に揃えてトランクに詰める。

 折角の旅が台無しになる病気やトラブルを避ける為には用意周到になるが、幸せなことに、お陰で一度もお腹をこわしたり、スリに遭った事もない。


 過去の経験からよく持参するのは、軽くてその上、色々便利な百円ショップの洗面器、中に壊れ物や暑い国の時はシッカロール等を詰めて行って帰りは置いてくる。 外出から帰って一分で熱湯が沸く電熱棒も部屋にポットがあっても必ず持って行く。こちらが安心だから~。 その際、お湯を沸かすのに一番使い勝手のいいのは色々試した結果、牛乳の空き箱だ。 

 又、地元の子供とコミュニケーションを取る為の小さなプレゼントはアメリカやヨーロッパでは折り紙の鶴、アジアは玩具、孫の不要になった本やカード等が喜んで貰える。ビデオや写真にも笑顔で応じて貰う為の小道具だ。

 今はビザなしで入国出来る国も増えたが、以前、前日になってベトナム領事館にビザの申請に行ったら「エッ! 明日のですか?」とびっくりされたので、ビザは余裕を見て十日前には申請することにしている。

 私の場合、行き先を決めてから最も長い時間を掛けて用意するのは行程表だ。
 
 予定の日数の中で内容を濃く、疲れを出来るだけ少なく、しかも安く、それでいてデラックスな旅にしたい。こんな欲張りな希望を叶える為に、インターネットや図書館をフルに活用させて貰って研究する。 独特のコース表を作りあげるには少々の努力は仕方がない。
 
 だが、とても楽しみな勉強だ。 幸いにも東京に住んでいるので、世界各国の大使館や観光局の資料を集めるにも便利だ。

 以前は二十日間とか一ヶ月とかの長い旅もしたが、年老いた母のことや孫の世話、或いはシルバーの講座も出来るだけ休みたくないので短期間の旅が多くなった。 又、その頃は、旅の仕方も飛行機からホテル、移動手段まで全部自分で交渉していたので大変だった。 

 勿論、好きで楽しみながらだったので苦ではなかったが、ホテルも現地で部屋を見せて貰ってから交渉していたので、言葉が不自由なのが一番困った。 でも、いつも何とかなるものだし、良くも悪くも自分の責任なので、納得出来て良いといつも思い出話だ。

 今はせいぜい一週間か十日、五日と短い旅になったが、高齢になって来たので、航空券ホテル等ある程度までは専門家におまかせする。 調べると都合のいい個人ツアーが色々ある。 初めて訪ねる国や広い国は、観光も適当に組み込んであるものの中から、自由に時間の取れるものを選ぶようにしている。 各旅行会社も競争なので、同じコース、ホテルでも値段も差がある場合もあるので何が違うのか比べてみる。

 ツアーと言っても、団体ツアーではないので時間やコースも割に自由になるのがいい。 

 興味のある場所に重点を置く。 例えば免税店に行くより市場をのぞいたり、本屋へ寄ったり、雑貨屋をひやかしたりする方が楽しいし、何倍も面白い。 地元の人ともちょっと交流できる。 自分と同じ年代の女性の生活や、子供達の笑顔にも沢山出会えるチャンスがある。

 時にはスカート、ブラウス、スカーフなど、現地の人と同じ物を一部分だけ使って散歩したりすると、その地に住んでいるかのような不思議な気分が味わえたりする。 

 ガイド付きで無料送迎、日本語は話せても現地の人なので、日本人ガイドよりも地元密着の話が聞けるし、又、もし何かあった時も助かると思う。 

 友達からも、「一人でよく行くね、怖くない?」と言われるが、今まで何十回か海外に出て、道に迷って困る事はしょちゅうだが、怖い目にあった事はない。 

 二年前にマニラで「虎屋に三年勤めていた」という日本語の巧い人の案内を断りきれず、最後に振り切るのに苦労した位かな?。
怖いどころか、外国の人は何処でも親切な人が多く、いつも、誰かに親切にして貰ったり笑顔で接して貰ったりで感謝している。 だから又すぐ旅に出たくなるのかも知れない。


 出発が近づき二~三日前までに予定のコースを仕上げて、資料と共に一日ごとに綴じておく。 現地の空港には日本語の案内があるので、忘れず貰って気に入ったものがあれば電話を入れて予約。 大抵の場合、日本でオプションを頼むより安く上がるしサービスも良い様な気がする。

 旅に出る前にワクワク期待に胸を躍らせ、現地ではフルに楽しみ、帰って旅行記を書き乍らもう一度旅をする。  十年後にもし、ベットでの生活になっても、写真や書いたものを読み返しては、楽しめるのではないだろうか?  将来の楽しみを蓄えることにもつながる?と、出掛けてばかりで少々の後ろめたさもあるが、「今しかない、今しか行けない」と、今は、まだ元気印の自分にも言い訳をしながら、せっせと旅行記を書き、CDやDVD作りを苦労しながらも楽しんでやっているのである。

   (平成22年8月掲載・次号よりトルコ旅行記を新コーナー「談話室」3回に分けて連載します。)

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